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こんにちは、おふと申します。
「ヴィッセル神戸」の魅力を発信していきたいという、いちファンが勝手にクラブの魅力を綴っていきます。
今回は「Jリーグを振り返る」という企画に乗っかり、さらに振り返って「戦後の関西サッカー史」を紐解いてみたいと思います。
戦後、関西サッカーの源流「ヤンマーディーゼルサッカー部」(関西Jクラブの関係性)
2020年現在、日本サッカーのトップリーグ「J1リーグ」に所属している関西クラブは3つ。
- ガンバ大阪
- セレッソ大阪
- ヴィッセル神戸
この3つのクラブにおける繋がりを「戦後の関西サッカー史」において紐解いてみようというのが今回の趣旨です。
…需要が全くないかもしれませんが趣味のブログなので、もしよければお付き合いください。
僕が知っている範囲になりますが、ご紹介したいと思います。
戦後、関西サッカーは「古川能章」氏によって切り開かれた
Jリーグの前身・「JSL(日本サッカーリーグ)」が1965年に開幕します。
このJSLに関西から唯一参加していたのが「ヤンマーディーゼルサッカー部」でした。
1965年というと「東京オリンピック」の翌年。
戦後の混乱期を抜け出した頃と言えます。
ここでのポイントは「ヤンマーディーゼルサッカー部」が「セレッソ大阪」の前身であるという事です。
セレッソ大阪の公式ホームページによると
1957年 大阪本社、在阪工場のサッカー愛好社員により創部 監督:古川能章
と示されています。
「古川能章」氏は関西における戦後サッカー史を切り開いたといえる人物です。
主な功績は「ヤンマーディーゼルサッカー部」の創部です。
「戦後の日本サッカー史」をもし大河ドラマにできるなら、主人公は日本サッカー協会を改革した「長沼健」氏であると僕は思います。
彼を中心に戦後の日本サッカー史が「学生スポーツ」から「社会人スポーツ」へと動き出すのですが、その「長沼健」氏の旧制中学における同級生が「古川能章」氏です。
この二人のルーツは「広島市」。
原子力爆弾によって被爆。
戦後、再びサッカーへの情熱からグランドを作ったというエピソードがある仲間です。
社会人チームで構成する国内サッカートップリーグ・JSL(日本サッカーリーグ)創設に尽力した長沼氏、その情報を得て「ヤンマーディーゼルサッカー部」をJSL初年度に関西から唯一参加させた古川氏。
古川氏はJSL初年度に間に合うよう、「ヤンマーディーゼルサッカー部」のサッカー部長にヤンマー創業家の婿養子・山岡浩二郎氏を迎え入れチームを大急ぎで強化しました。
もし「ヤンマーディーゼルサッカー部」がJSL参加しかったなら、関西サッカーはもっと関東サッカーから引き離されていたのかもしれません。
戦後の関西サッカー史は「長沼-古川ライン」により、「社会人チームのスポーツ」へと切り開かれたのです。
「関西サッカーの源流」が「ヤンマーディーゼルサッカー部」である所以
「古川能章」氏の功績はそれだけではなく、ヤンマーに人材を集めた事です。
もう一度、セレッソ大阪の公式ホームページによると
1966年 入替戦で浦和クラブを破り残留 監督:鬼武健二
ここで「鬼武健二」氏が登場してきます。
わかりやすく言うと、後の3代目Jリーグチェアマンです。
鬼武監督は「ヤンマーディーゼルサッカー部」を関西の強豪に仕上げた名将。
1967年が監督1年目で28歳で監督就任。
その実績は
JSL最多勝利監督(93勝)
3度の天皇杯優勝(68年、70年、74年)
3度のJSL優勝(71年、74年、75年)
中心選手は「釜本邦茂」選手。
「鬼武体制」を支えたのが「加茂周コーチ」と「安達貞至マネージャー」でした。
ここでなぜ、「ヤンマーディーゼルサッカー部」を「関西サッカーの源流」としているか分かった人はかなりヴィッセル神戸に詳しい人だと思います。
「ヤンマーディーゼルサッカー部」の2軍「ヤンマークラブ」が「ガンバ大阪」
ヤンマーのホームページにこんな記事が掲載されています。
前・セレッソ大阪社長の玉田稔氏のインタビュー記事なのですが…
その玉田氏が「ヤンマークラブ」について、このように話しています。
入社は1977年のことですね。私はサッカーで入ったわけではないんですよ。一般社員として入ったのですが、大学(関西学院大学)の時にサッカー部でしたので、『それならサッカーをやってみたらどうか』と言われまして、籍を置くことになりました。ヤンマークラブ(2軍チーム。当時JSL2部)で1年だけプレーいたしました。翌年も『サッカーをやれ』と言われたのですが、『もう勘弁して下さい』と(笑)。そうしたら、釜本邦茂さんが監督(選手兼任のプレーイングマネージャー)になるタイミングでしたので、『マネージャーをやってくれ』と言われまして、2年間務めました。
玉田前社長が所属していた2軍チームの「ヤンマークラブ」。
この2軍チームがかなり強いチームで、1972年に「関西サッカーリーグ」に所属してしまいます。
さらには、76年には「JSL2部」に昇格してしまうのです。
その後、ヤンマーの方針で79年に「ヤンマークラブ」は解散に追い込まれます。
鬼武監督に見出され、当時ヤンマークラブの指揮を執っていた監督が「水口洋次」氏でした。
「水口洋次」監督は、チーム解散後の「ヤンマークラブ」所属選手を多数連れて「松下電器産業」に移籍してしまいます。
「松下電器産業サッカー部」の誕生です。ここでのポイントは「ヤンマークラブ」が「松下電器産業サッカー部」の前身であり、「ガンバ大阪」につながっていく事です。
水口洋次氏は、ここから11年「松下電器産業サッカー部」を指揮し、90年には「本並健治」「和田昌弘」「永島昭浩」を擁し天皇杯優勝を勝ち取ります。
この松下電器産業サッカー部がガンバ大阪になります。
Jリーグ開幕時に「釜本邦茂」氏を監督に迎え、「水口洋次」氏を強化部長に据え、Jリーグオリジナル10として唯一の関西クラブとして参戦します。
現在はJリーグで数々のタイトルを獲得した「関西の雄」として君臨しているのです。
JSL時代に比べると「セレッソ大阪」との立場を逆転させて…
「セレッソ大阪」と「ガンバ大阪」は長い歴史を挟んだ「兄弟クラブ」と言える所以です。
「安達貞至」氏を迎え入れた「ヴィッセル神戸」
「セレッソ大阪」と「ガンバ大阪」が「ヤンマーディーゼルサッカー部」を源流にして別れたクラブだという事はお分かりいただいたと思います。
では、「ヴィッセル神戸」はどうなのか?
「ヴィッセル神戸」は「川崎製鉄水島サッカー部」を前身にしているクラブです。
川鉄は岡山を本拠地にし、関西の中心となり強豪チームとして君臨していた「ヤンマーディーゼルサッカー部」は関係ないと思われるかもしれませんが…実はそうではないのです。
「ヴィッセル神戸」結成の95年から初代強化部長・ゼネラルマネージャーを歴任した「安達貞至」氏。
97-98年と一時的に「横浜フリューゲルス」のゼネラルマネージャーをされますが、05年に神戸に戻ってきて代表取締役社長までされます。
彼には有名なエピソードがあります。
ヴィッセル神戸の95年創設時メインスポンサーは「ダイエー」でした。
創設したばかりのクラブは阪神大震災で被災するのですが…震災で大きな痛手を負った「ダイエー」はスポンサーを降ります。
その時、ダイエーの中内会長に「スポンサーの撤退は仕方ないが、資本金10億円の内ダイエーが出資した5億円を残していってほしい」と直談判をしたのが安達強化部長でした。
その5億円のおかげでクラブは早期解散せずにすみました。
ダイエーから出向されていたフロント陣がクラブから撤退していくなか、安達氏はクラブに残り、Jリーグ昇格のキーマンとなっていきます。
その「安達貞至」氏が前述した「ヤンマーディーゼルサッカー部の67年鬼武体制」を支えた若きマネージャーです。
「ヴィッセル神戸」は「ヤンマーディーゼルサッカー部」の育てた人材によって、存続し神戸に定着していくことができたのです。
戦後の関西サッカーをまとめると…
・ヤンマーディーゼルサッカー部 → セレッソ大阪
・ヤンマークラブ(2軍) → 松下電器産業サッカー部 → ガンバ大阪
・ヴィッセル神戸も「安達貞至」氏よりヤンマーディーゼルサッカー部の影響を受けている
「古川能章」氏が集めた人物たちが紡いで現在の関西サッカーを作った事実を知って、「大阪ダービー」や「阪神ダービー」を観るとより面白く感じる事ができるのではないでしょうか?
戦後関西サッカー史における関西Jクラブの繋がりを「ヤンマーディーゼルサッカー部」視線で簡単にまとめてみました。
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