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こんにちは、おふと申します。
「ヴィッセル神戸」の魅力を発信していきたいという、いちファンが勝手にクラブの魅力を綴っていきます。
前回は、「川崎市」と良好な関係を築き、ホームスタジアム改修案をサッカー専用スタジアム変更へと促した「川崎フロンターレ」の物語をご紹介致しました。
今回は、サッカー専用スタジアム新設の為に「広島市政」と闘った「サンフレッチェ広島」のお話です。
クラブに友好的な川崎市との「地域密着」「サッカー文化」の物語とは違い、
「市政」に翻弄されたサッカークラブが新サッカースタジアム建設まで戦い抜いた物語です。
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「広島市政」に翻弄されつつも「新サッカースタジアム建設」まで道筋を立てた「サンフレッチェ広島」
中国地方の中心都市「広島市」。
サッカーファンにとっては、待望の「新サッカースタジアム建設計画」が
広島市で進んでいます。
広島市は、サンフレッチェ広島の新たなホームスタジアムとして計画されている新サッカースタジアムの基本設計を公開した。サッカースタジアムおよび芝生広場を擁する広島スタジアムパーク内に整備される。サッカースタジアムの開業は2024年予定。
サッカースタジアムの規模は、敷地面積約49,900m2、建築面積約26,700m2、延床面積約60,000m2、地上7階、最高高さ約42m。座席数は約3万席、車いす席300席。フィールドは天然芝とする。
(「ImpressWatch」の記事より引用)
この計画………
これまでのサッカースタジアムのなかでも、
指折りの苦闘の上に成り立つ事になる「難産になった計画」でした。
難産になった理由は「広島の政治」。
サッカースタジアムを建設するには自治体の協力が不回避なのですが…
広島ほど「市政」に翻弄された事例も少ないと思います。
「広島新サッカースタジアム建設計画」を時系列にして、
簡単にまとめてみます。
「サンフレッチェ広島」にとって、新サッカースタジアムが必要な理由
現在の「サンフレッチェ広島」がホームスタジアムにしているのが「広島ビッグアーチ」。
約5万人を収用できる日本最大級の陸上競技場です。
1992年に竣工された「広島ビッグアーチ」は
旧国立競技場を彷彿させる「すり鉢状の陸上競技場」。
僕もサッカー観戦に何度も行きましたが…
「等々力競技場」や「横浜国際総合競技場」に比べると
非常にピッチが観やすく良いスタジアムです。
それなら、「サンフレッチェ広島」は「広島ビッグアーチ」で良いじゃないの?
と言われるかも知れませんが………
決定的な弱点があるんです。
1996年 サンフレッチェ広島経営危機問題
その弱点が「1996年のサンフレッチェ広島経営危機問題」の一因となり、いまでもクラブ経営を苦しめています。
その弱点とは「広島ビックアーチの立地」です。
広島市内から遠く離れた山の奥地に「広島ビッグアーチ」は建設されています。
なぜ、そんな立地に建てたのかと言うと…
当時、広島市内に巨大スタジアムを建設するような土地がなかったからです。
さらに、この山奥に広島の新しいニュータウン「西風新都エリア(副都心)」を造り
発展させるのが広島市の計画でした。
この「西風新都エリア」が順調に発展したら、問題がなかったのですが…
「西風新都エリア」の人口は思ったよりも伸びませんでした。
その結果、「広島市内」と「西風新都エリア」を結ぶ交通手段「アストラムライン」は計画通りにはいかず、未だに環状線が開通できない状況。
だから、「広島ビッグアーチ」を満員にさせるには輸送量がまったく足りない。
自動車でサッカー観戦に行こうにも、駐車場が少ない……渋滞がひどい。
「サンフレッチェ広島」を観に行くにも、「立地」「交通」がひどく、「広島ビッグアーチ」に辿り着くまでが大変なのです。
このなかなかスタジアムに辿り着けない問題は、広島でクラブ経営するにあたり大きなダメージになっていました。
元々、広島市には「広島カープ」と言う人気のプロ野球球団があります。
カープの本境地だった「広島市民球場」は広島市内のど真ん中!
つまり、スタジアムに辿り着けない経験がなく、ちょっとそこまで野球見てくるねって感覚なんです。
サッカーを観に1時間もかけて出掛けるって感覚は、広島市民にはありません。
僕が転勤で広島に住んでいた時に、サッカーに興味のない同僚に広島ビッグアーチまで行ってくるというと…
奇特な奴扱いされてしまいました。
この観客をスタジアムまで辿り着けない「立地」がクラブ運営に大きな影響を及ぼし、
筆頭株主「マツダ」の経営悪化とともに、1996年の経営危機問題の一因となりました。
元々、こんな山奥にスタジアムを建てた「広島市政の思惑」が…。
1996年の経営危機問題は
筆頭株主を「マツダ」から「デオデオ(後のエディオン)」に変更し、
「デオデオ(後のエディオン)」が経営を支える事で解決しました。
「当時の話ですが、(サンフレッチェの筆頭株主の)マツダさんの業績が一時的に非常に厳しくなったんです。そして、サンフレッチェのスポンサーをやっている事態じゃないと、徐々にサンフレッチェから手を引いていきたいという意向がありました。じゃあ、どこが(メインスポンサーを)受けるの? となって、当時の広島商工会議所の橋口(収)会頭から、『マツダさんがこういう状況なので、マツダさんが後押しをするから、久保さん、受けてくれないか』という話があったんですよ。でも僕は、『いやいや、僕はサッカーのことは分からんし、興行についても、全然、経験がないし、小売業なら分かると(笑)。そういう話をして、よく考えさせてください』と最初は言いました。
それでも一週間後くらいに橋口会頭からまた話があって、藤田雄山さん(当時の広島県知事)、平岡さん(敬/当時の広島市長)、マツダのミラー社長(当時)もあわせた会合が開かれたんです。クラブは債務超過で、『久保さん、こんな数字じゃ受けれんよな』という第一声が藤田知事からあって、みんなでどうサポートするのかを話し合いました。そして僕は、お受けするのであれば、『条件があります』と申し上げました。県・市・経済界の協力、そしてマツダさんにはサンフレッチェへの支援の継続、また、練習着にはスポンサーを入れるからゼッケン(ユニホームの胸スポンサー)を外してほしいとお願いし、それだったらお受けすると申し上げたんです。そうしたら、ミラー社長が『分かりました』と仰ってくれて、他の皆さんも賛同してくれて、サンフレッチェの経営を引き受けることになったんです」(「サッカーダイジェスト」の記事より引用)
経営問題は解決しましたが「立地問題」は…。
その「立地問題」を解決する妙案が
「2002年ワールドカップ広島立候補」でした。
世界的なイベント誘致で「致命的な交通問題」の解決へとなるはずでした…
2002年 ワールドカップ広島誘致失敗
ところが、2002年のワールドカップ広島招致に失敗。
失敗した理由として、
当時の「平岡敬広島市長」が「広島ビッグアーチ」のワールドカップ開催に必要な改修工事を拒否した事。
元田賢治委員(自民党・保守クラブ)も広島市の過去について、広島広域公園陸上競技場(現エディオンスタジアム広島)の過去を引用した。
「スタジアムを作るとなると、広島市は前に一度失敗しています。屋根架けに100億円かかるからと断念した。過去の例もよく見極めて最終的にはそこをしっかり踏まえてどうするのか。紙屋町、八丁堀との動線もどう考えるのか?」
マツダスタジアムはその躯体を支える杭の問題も含めて表に出ていない”失敗の構図”が数多く残されているが、広島広域公園陸上競技場の過去にも”反省の歴史”がある。
広島広域公園陸上競技場は一般公募により広島ビッグアーチと呼ばれていた。1992年完成。1994年の広島アジア大会に向けて作られた。
だが、この「ビッグアーチ」が致命傷になった。1996年12月、広島市は当確とされていた2002年日韓共催ワールドカップの開催都市に選ばれなかった。理由は規定の「屋根架け」をしないと広島市がFIFAに返答したから。当時の平岡市長は「傘をさしてサッカーは観戦できる」との見解を示した。トップがこうだと市民は悲劇だ。広島だけではない。中四国地方の複数の都市も「広島が手を上げるのなら」と候補地争いには参戦しないでいた。市のトップが判断ミスを犯すととんでもないことになる。
つけ加えるなら、平岡市長はきっちり日韓共催W杯を観戦に訪れたという。最後まで市民の神経逆撫で、である。
広島アジア大会とW杯開催都市決定の間にはたった2年しかない。その2年先をしっかり見据えなかった広島市はメインスタンド側に中途半端なアーチ状の屋根だけをかけて、ものの見事に「失格」の烙印を押された。
その直後、アストラムラインで広島広域公園に向かう川淵三郎チェアマン(当時)にひろスタ!特命取材班はテレビカメラとマイクを向けたことがある。
窓の外に見えてきたビッグアーチを眺めて川淵チェアマンはこう言った。
「アーチ…あれは無用の長物だね、他の都市はしっかりとスタンドを屋根で覆う設計になっている。広島はどうしてあんなことになったのか」
日韓W杯は当時の日本サッカー協会、長沼健会長の尽力によって実現した一大ムーブメントだった。元田委員もそのことを知っているから「長沼会長」に触れながら新サッカースタジアムの”未来”を案じてそう尋ねたのだろう。
(「ひろスポ!」の記事より引用)
平岡市長の名言「傘をさしてサッカーは観戦できる」
これにより、「サンフレッチェ広島」は希望を挫かれます。
5万人収容できるスタジアムはあるけど、観客がたどり着けない…。
これで経営を安定させ、クラブを発展させるのは至難の業です。
ここでも「広島市政」がクラブを苦しめます。
2001年、奇しくも「サンフレッチェ広島」は初のJ2降格を経験することになります。
2003年 「新スタジアム建設」へ舵をきる
「広島ビッグアーチ」では経営が安定できないと悟った「サンフレッチェ広島」は、
「サッカー専用スタジアム建設」へと舵をきっていきます。
2003年4月に突然の「スタジアム推進プロジェクト」を設立。
当時は「秋葉忠利広島市長」。
彼の公約のひとつが「新サッカースタジアム建設」でした。
建設計画を広島市が後押しする形。
………「サンフレッチェ広島」が「広島市政」に初めて後押しされる事となります。
「立地」は広島市のど真ん中「広島市民球場」。
プロ野球球団・広島カープがJR広島駅のお隣「マツダズームズームスタジアム」へ移転が決まっていて、その跡地に「新サッカースタジアム」を建設しようと言う計画でした。
この計画がスムーズに進行していたら、
「広島新サッカースタジアム」はもう建設されていたでしょう…。
この計画は2006年に事実上休止されることになります。
その理由が「原爆ドーム周辺の景観問題」。
原爆ドーム周辺に高層マンション建築計画が発覚し、
住民による大規模な建設反対運動が立ち上がり、
大きなムーブメントになっていきます。
その影響を受け、「新スタジアム建設計画」は休止することになりました。
ドーム周辺の景観について、市は1995年に原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱を作成。世界遺産保護のための周辺地域「バッファーゾーン(緩衝地帯)」内に、建築物や野外広告物を建設、改築する場合は、市と事前協議をするよう事業者に求めた。だが要綱に法的拘束力はなく、ゾーン内に14階建てのマンションが建ち、被爆者団体から批判が上がった。
2004年の景観法制定なども追い風に、市は06年に高さ制限などを議論する「市景観審議会」を設置。この審議会で今回、ドーム北側の景観保護について具体策がまとまった。
(「朝日新聞」の記事より引用)
2011年〜 「新サッカースタジアム建設」への再アプローチ
2007年〜2011年、「サンフレッチェ広島」はペドロヴィッチ監督を擁して
Jリーグでも最も攻撃的で楽しい「ミシャ式可変システム」を採用。
Jリーグを盛り上げていきます。
「最先端の攻撃的なサッカー」を披露しても、広島ビックアーチの観客動員数は低迷。
魅力的なサッカーをしようと、
スタジアムに観客が辿り着けないなら
観客動員数が伸びないことをクラブは悟ります。
この年、ペドロヴィッチ監督の年俸が高く…払えなくなり、
彼は強豪・浦和レッズに招聘されてしまいます。
そこで、2011年1月に広島県サッカー協会が中心となり
「スタジアム建設要望書」の署名活動を開始します。
この署名活動、1年8ヶ月で370,579件を集めます。
広島市民が約120万人なので、1/4の方が署名した事になります。
(市外の方の署名も含んでいますが…)
多くの方の署名により、
2013年6月に広島県・広島市・商工会議所・県サッカー協会の4者による
「スタジアム建設協議会」が設立されます。
「松井一實広島市長」の思惑
2012年、J1制覇を果たした「サンフレッチェ広島」。
その優勝報告の際に、森保監督からスタジアム建設のお願いを受けた
「松井一實広島市長」はこう答えます。
「3回優勝したら考えますね」
さらに2013年J1最終節…松井市長は
「サンフレッチェは2位でいい」
と発言します。
実は「サンフレッチェ広島」は
- 1994年セカンドステージ優勝
- 2012年J1リーグ優勝
と2回優勝していて…
2013年J1リーグを制すると、「3度目の優勝」になるのです。
(2013年「サンフレッチェ広島」はJ1リーグを連覇、3度めの優勝を手にします)
前年に「3度優勝したら考える」と答えていたために
「2位で良い」と言う発言をしてしまったと推測します。
「新サッカースタジアム建設」を推進したくない松井市長の本音がみえる発言でした。
松井市長はなぜ「新サッカースタジアム建設」を推進したくなかったのか?
それは「新サッカースタジアム建設」を公約にしていた秋葉前市長の存在が大きいのだと思います。
松井市長は、自民党・公明党の推薦を受けた「保守派」。
秋葉前市長は、社民党を基とする「革新派」。
松井市長は秋葉市政を否定して、広島市長に当選しました。
だから、秋葉市政の公約を推進したくないのが本音。
96年の経営危機の際に、平岡元市長がサンフレッチェ広島の経営に関して「市の協力」を約束してくれていたのに…広島市は久保会長との約束は反故にしてしまいます。
「サンフレッチェ広島」としては、広島市内の「新スタジアム計画」を推進するために「広島市の松井市長」と戦わなければならない状況になっていきます。
2015年 松井市長と広島市長選で対決
2014年、「スタジアム建設協議会」によって
「新サッカースタジアム建設計画」の立地が
- 「旧市民球場跡地」
- 「広島みらい公園」
に絞られます。
サンフレッチェ広島と言う当事者を外した「スタジアム建設協議会」。
突如浮上した「広島みらい公園案」。
「サンフレッチェは2位でいい」と発言した松井市長に
不信感を募らせる「サンフレッチェ広島」の久保会長。
不信感の原因は「広島みらい公園案」だと、山奥が海辺に変わっただけで「立地問題」「交通問題」を解決できないからです。
広島市はなぜ「サンフレッチェ広島」が「広島ビッグアーチ」から
移転をしたいのかをわかっておきながら、立地解決をする気がない…
そう判断したのです。
対決ムードが高まり、両者は「2015年の広島市長選挙」で対決します。
サンフレッチェ広島の当時社長「小谷野薫氏」が広島市長に立候補。
松井氏を広島市長から追い落とすことにしたのです。
選挙結果は「松井市長の勝利」。
スタジアム問題だけを争点にして、小谷野氏に広島市政を任すことができないと
判断した広島市民は賢明だったと思います。
松井市長が主導する「広島みらい公園案」
選挙結果を受け、松井市長は「広島みらい公園案」を主導していきます。
この時点で、松井市長は「スタジアムは絶対に旧市民球場跡地に建てさせないマン」だったのです。
「選挙後の制裁」って、怖いですね。
2015年7月、「スタジアム建設協議会」は
県サッカー協会を抜いて「広島みらい公園案」が優位と発表。
広島市による「広島みらい公園案」のサンフレッチェ広島への押し付けが始まります。
2016年3月にサンフレッチェ広島の久保会長は
「旧市民球場跡地にスタジアムを建設するサンフレッチェ広島独自案」を発表。
「広島みらい公園案」に真っ向から反発します。
「サンフレッチェ広島のホームスタジアム」は、
広島市内の中心地でないと建設する意味がない事を主張しました。
2018年 深山英樹広島商工会議所会頭の調整で「中央公園芝生広場案」に…
松井市長と久保会長の「新スタジアム建設計画」は膠着状態に。
松井市長は「政治家としてのメンツ」
久保会長は「サッカークラブ経営」の観点から
両者とも後に引けない状況に追い込まれました。
2018年9月、状況を打破するために急遽でてきたのが「中央公園自由芝生広場案」。
秋葉市政の公約である「旧市民球場跡地案」が嫌な「松井市長」と
クラブ経営を安定させるために広島市内にスタジアムが欲しい「久保会長」。
そのふたりの意見を満足させる絶妙な立地でした。
調整したのは「深山英樹広島商工会議所会頭」。
深山会頭の思惑通り、2019年2月に「中央公園自由芝生広場案」で決まります。
新スタジアムの立地決定争いが残した遺恨は
- 「松井市長」と「久保会長」の考える一等地ではなく、妥協の末に決定した「理想の立地」ではない事
- 「広島市」と「サンフレッチェ広島」に大きな溝ができてしまった事
それでもようやく、広島における「新スタジアム建設計画」が本格的に動き出したのです。
「広島市政」3代に渡って振り回された「サンフレッチェ広島」
「平岡市政」で始まり、「秋葉市政」を否定する「松井市政」に翻弄された「広島サッカースタジアム物語」はいかがだったでしょうか?
本当は元々のスタジアム計画失敗の原因であった平岡市政に
もっと焦点を当てたかったのですが…あんまり資料がなかったので…
そこにはあまり突っ込めませんでした。
「西風新都エリア」の主要鉄道であるアストラムラインは令和10年完成予定でした。
その頃には「広島ビックアーチ」への交通も改善されますね。
今回の記事はサンフレッチェ広島の立場から「新スタジアム建設計画」を書いたので…
違う立場の方や当事者の方からは、異論があるとは思います。
報道などで公表されている経緯とサンフレッチェ広島ファンの友人の話を
もとに自分なりに解釈して記事化しました。
「川崎フロンターレ」が川崎市民に愛される幸せなクラブと前回の記事で書きましたが…
「サンフレッチェ広島」は「広島市政による苦難を強いられたクラブ」だと思いました。
そのなかで「クラブとチーム」が最善の結果を出し続けてきたのも、
熱い広島サポーターの支持があったからだと推測します。
広島の新スタジアムができた時、
サンフレッチェ広島ファンの喜ぶ笑顔が楽しみです。
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