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こんにちは、おふと申します。
「ヴィッセル神戸」の魅力を発信していきたいという、いちファンが勝手にクラブの魅力を綴っていきます。
今回は「Jリーグを振り返る」という企画に乗っかり、「川崎製鉄サッカー部」について語ってみたいと思います。
今回の記事は正確な資料がなかったので、僕の当時の記憶を中心に主観的な内容になっています。
神戸ファンが「川崎製鉄」を語ることを怒る方がいるかも知れませんが、こんな歴史があったと残すことも重要だと思っています。
ご容赦ください。
ヴィッセル神戸ファンは「川崎製鉄サッカー部」を知っていますか?
「過去を振り返る」企画という事で、今回はヴィッセル神戸の前身「川崎製鉄サッカー部」について、僕が知っている範囲でご紹介したいと思います。
さて、「川崎製鉄サッカー部」についてどのくらいご存知でしょうか?
ヴィッセル神戸ファンなら、どんなチームだったか知っていて当然!
…と言いたいのですが、ほとんど知らない人の方が多いと思います。
僕も知りません。
「川崎製鉄サッカー部」がやっていたサッカーや主力選手など、あまり語られたことがないのではないでしょうか?
YouTubeで見つけた「川崎製鉄サッカー部」の93年天皇杯の映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=MbpHQ1UJLVs
正直、僕も98年にフローロ監督解任の後を引き継いだ「郡 晴己」監督が就任されるまで「川崎製鉄サッカー部」を意識した事もありませんでした。
当時、神戸ユースコーチをされていてトップチーム監督に昇格された「郡 晴己」氏こそが「川崎製鉄サッカー部」最後の監督でした。
その事を知った時に「川崎製鉄サッカー部」について、まったく無知だった事に気付いたのを覚えています。
郡監督は、シーズン途中での就任ながらしっかりと結果を残してくれて、J1参入決定戦で札幌を下して残留を決めてくれました。
なぜ、「川崎製鉄サッカー部」は馴染みがないのか?
ヴィッセル神戸のファンが「川崎製鉄サッカー部」について、あまり知らない理由は
- クラブ結成時の運営会社「神戸オレンジサッカークラブ」の意向
- 「川崎製鉄サッカー部」出身の選手がチームの主力選手にならなかった
この2点だったと僕は思っています。
ヴィッセル神戸ファンが「川崎製鉄サッカー部」に思い入れがあまりない理由
ヴィッセル神戸ファンは「ヴィッセル神戸」には強い思い入れがあっても、「川崎製鉄サッカー部」に対してはそんなに思い入れがないと個人的には思っています。
「川崎製鉄サッカー部」を神戸移転の経緯
プロサッカーチームを誘致しようとしていた1992年当時の神戸にはプロサッカークラブの母体となる企業チームがありませんでした。
そもそも、当時の企業チームに「ホーム」と言う認識もありませんでした。
そこで神戸市が白羽の矢をたてたのが、「川崎製鉄サッカー部」。
「川崎製鉄サッカー部」は1966年に「川崎製鉄水島製鉄所サッカー部」として創部。
1992年からJFLに所属していた岡山県を拠点とした強豪チームでした。
川崎製鉄本社が神戸にあった縁から、94年に「川崎製鉄サッカー部」を誘致する事に成功するのですが…。
神戸移転に関して
- 「川崎製鉄サッカー部」を川崎製鉄から分離する
- クラブ運営は「神戸オレンジサッカークラブ」が行う
という状況での誘致でした。
「神戸オレンジサッカークラブ」は設立当初、メインスポンサー「ダイエー」を中心に「ヴィッセル神戸」運営の為に立ち上げた株式会社です。
その為、「ダイエー」色を出したかったので「川崎製鉄サッカー部」をもともとあまり全面にアピールしていませんでした。
分かりやすいのがチームカラーです。
「川崎製鉄サッカー部」の時は「赤」でしたが、「神戸オレンジサッカークラブ」からは「白黒にオレンジのライン」に変更。
神戸ファンが「川崎製鉄サッカー部」に思い入れがあまりないのは、もともと運営会社「神戸オレンジサッカークラブ」の意向があったからです。
後日談にはなりますが…
04年にヴィッセル神戸を「楽天」が買収。
95年からの「白黒」のチームカラーを「楽天」のコーポレーションカラーの「赤」に変更する事になります。
つまり、「川崎製鉄サッカー部」時の「赤」に戻ることになります。
当時、チームカラーの変更で多くの神戸サポーターが反対して大きな問題になっていました。
「10年後にこんな皮肉がかえってくるんだ」と苦笑いしたことを覚えています。
「川崎製鉄サッカー出身者」が主力選手になれなかった理由
「川崎製鉄サッカー部出身者」が主力選手になれなかったのに関しては、95年当時のヴィッセルがおかれた状況が大きな原因になっています。
震災直後の3月にメインスポンサー「ダイエー」が撤退してしまいます。
これにより、クラブはスポンサー探しに奔走し、即時Jリーグに昇格しなければクラブ存続も厳しい状況に置かれてしまいます。
そこで、JFL所属していた「川崎製鉄サッカー部出身者」を育ってていくよりも「Jリーグ経験者」を移籍で獲得して、結果を出していく方針でいくしかありませんでした。
結果として、「川崎製鉄サッカー部」出身者27人中20人が1年で「ヴィッセル神戸」を退団する事になってしまいます。
「川崎製鉄サッカー部」というチームを乗っ取ったと周りから見られても仕方のない話です。
というわけで、個人的には「ヴィッセル神戸」は「川崎製鉄サッカー部」を前身にしていると胸を張って言えないと思っています。
「川崎製鉄サッカー部」は「ファビアーノ岡山」へ
「川崎製鉄サッカー部」が神戸に移転した時に下位チーム「リバー・フリー・キッカーズ」を切り離して岡山県に置いてきました。
この「リバー・フリー・キッカーズ」に前述したヴィッセル神戸退団の「川崎製鉄サッカー部出身者」が大半戻ってくることになります。
と言うのも、ヴィッセル神戸に加入していた「川崎製鉄サッカー部出身者」のほとんどが川崎製鉄に籍を残したまま「出向」していた選手だったからです。
98年シーズンまでヴィッセル神戸に残った最後の「川崎製鉄サッカー部」出身者、兼本正光選手のサイン。
ヴィッセル神戸黎明期のゴールキーパー陣を支えてくれた功労者です。
彼も「リバー・フリー・キッカーズ」に戻っていきました。
つまり、人材的にも心情的にも「川崎製鉄サッカー部」の正当なる後継クラブは「リバー・フリー・キッカーズ」なのです。
後に「リバー・フリー・キッカーズ」は「ファビアーノ岡山」として、Jリーグへ駆け上がって来ることになります。
岡山には「川崎製鉄サッカー部」の伝統を繋いでいってほしいと思っています。
この「川鉄移転」について、岡山サイドからの心情を書かれていたブログを見つけたのでご紹介します。
今こそ伝えたい「歴史」がある。 | FORZA!FAGIANO : ファジアーノ岡山FCを死んでも応援するサポーターズサイトforzafagi.gate10.org
「川鉄移転」について、岡山のファンが苦々しく思っていたと推察されます。
神戸移転後に、岡山のファンがその気持ちをあまり表現しなかったのは「阪神大震災」の影響があったのだと思います。
「川崎製鉄サッカー部」から「ヴィッセル神戸」を視ると…
サッカーのプロ化に翻弄された「川崎製鉄サッカー部」。
「川崎製鉄サッカー部」移転の経緯や結果を振り返ると、「ヴィッセル神戸」をより愛し、神戸のクラブとして大切にしていくべきだと一層強く思うのです。
※「川崎製鉄サッカー部」について、詳しい資料というのがあまりなのですが…
知りたいという方に「情報」を提供します。
「神戸フリーバーズ」さんが「神戸海征塾」さんの協力を得て、川崎製鉄サッカー部の本「源流」を制作されているみたいです。
僕のような主観と記憶だけでブログに書いているのではなく、本にして歴史を正確と伝えてくれている活動をされていて、頭が下がる思いです。
「神戸賀川サッカー文庫」で拝見できるらしいので、ご興味のある方はぜひ足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?
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